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カルト宗教信者を親にもつ元二世の葛藤と超克

私は現在、就職活動中の都内某大学に通う元カルト宗教二世の男子大学生です。

就職活動というのは、ご存知かもしれませんが、自分がファーストキャリアをどんな仕事にするか決める重要な期間です。しかも、新卒とあれば多少の専門性の高さなら無視して、なりたい何かになれるチャンスでもあります。

こんな風に、いい意味で楽観できるのも、これまでの私のカルト宗教二世信者という、名前だけではなく、心まで蝕まれた人生を超克する挑戦にハッピーエンドを迎えたためです。

 

幼い頃からの宗教教育は、科学的に見ても毒でしかありません。

結果的に鬱になったりADHDを発症したり、アダルトチルドレンという症状を引き起こし、いわゆる”社会不適合者”の烙印を押されかねない人間になってしまう可能性を孕んでいます。

この私も例外ではありませんでした。しかし、昨今ツイッターに多くの同じような境遇の人を見ることはできますが、私の場合、私が成長し、世界を知るにつれて、親が厳しく縛り付けてこない状況にありました。

とはいえ、幼い頃から女性との関わりを禁止され、結婚も自由にできないと宣告され、教義を破れば”地獄に落ちるぞ”と脅されながら生きてきました。

幼い頃の私たちには当然判断する能力もなく、信じるというか、そういう世界として生きてきました。

 

こんな状態のまま、考える能力もなく大学生になってしまいました。

しかし、この大学が息苦しくて仕方ありませんでした。皆、恋愛に酒に奔放な生き方をし、それと比べて自分は…と気持ちがふさぎ込んでしまったのです。このくだらない勘違いには後ほど言及しますが、当時は真剣でした(笑)我ながらバカですねぇ…

しかし、別に誰かを好きになったり、付き合ったりすることは何も悪いことではありませんし、人間として生きる上でのモチベーションとして必須のものです。

 

つまり、本来自分には強く、”こうしたい、ああしたい”という欲や本音があるのに、決められた(と勘違いしている)、作り上げた自分という像(そんなもの本当はなかった)に、自分を押し込み、他者が望む私(これまた勘違い)を生きていました。

こうして振り返るだけでも自意識過剰もいいところで、顔を覆いたくなるレベルですが、ここはひとつ、皆さんに追体験してもらうべく赤裸々言ってしまいます。

同様に、他人の目が異常に気になっていたので、”客観視するんだ!”と意気込んでは、誰かが決め、出来上がった共同幻想に考えなしに乗っかるダサい自分を作り上げていました。

 

こうした思考回路と、幼い頃からの宗教教育に起因するねじ曲がった価値観が、ガッチリと噛み合い、抜け出すのが困難なほどに迷い、苦しんでいました。

 

結果、そんなねじ曲がった主観を客観と見誤り気に病むという、気にしすぎ病(鬱ではない、なりかけてたかもしれませんが)を発症、1年生の真ん中頃から慢性化しはじめ、自分のバックグラウンドへの悩みの肥大化も相まって、病の進行は加速します。何を思ったのか、そんな時期に彼女を作る行動に出て、成功させてしまい(今でも謎だが)、その精神状態で彼女がいること自体が負荷になり、数ヶ月で破局(ほぼ私のせい。詳細気になる方はコメントでもしてください、書くかも笑)という結末を招き、アクセル全開で気にしすぎ病を進行させました。

 

しかし、ここでひとつ大掛かりな計画を始動させました。それが1年間の休学とその期間を利用した留学です。よく考えたらここで、この攻めの姿勢に転じることができたのは、やはり意志の強さのおかげだと言いたいところですが、実際は現状から逃げたくて仕方なかったからです。ここから逃げられるなら海外で自力で生活する方がマシだ、と本気で考えた結果でした。考えた末、主な気にしすぎ病の原因は、私をとりまくあらゆる環境(学校・宗教・家族・友人)にあると思うにいたり、実行しました。単純に留学したかったのももちろんありますが。

 

この選択が、非常に自分の人生に良い影響を与えてくれました。

あらゆるしがらみから離れ、心を自由にしながら、それでも働いたり、語学学校に通いながら社会とのつながりを保つことで、古すぎたり、使い物にならない価値観がアップデートされ、インストールされていく感覚を覚えました。

 

そんな生活の中で、気づいた意外な自分の性質が、大抵のことにそれほど動じないところだった。この後、ガタガタと崩れさる私の旧い価値観とひらけた視野にも、希望こそあれ、動じることはありませんでした(それを欲していたから当然かもしれませんが)。

 

こうして一から社会との関わりを築くうちに、本当の意味での内省力を手に入れました。というのも、これまでは外側にあるモノや人と比べて自分のモノは?とか、自分という人間は?といった価値判断のものさししかありませんでした。つまり、自分のフィルターを通す前に、一度自分の外にあるフィルターを通し、通過したものを自分のフィルターに通すという形で、内省していたのです。簡単にいうと、自分で決める精神力がなかったのが原因です。

 

これができる精神にしてくれたのが、私の場合、留学生活です。

”俺はどうしたいんだ”という問いかけをストレートに自分にぶつける。その答えを対象にぶつけていく。時に過剰なまでに。そんな風に自問自答から生まれる率直な欲求に素直になるという行為をゆっくり獲得していきました。

 

帰国の頃には、自分が対象に対してどう感じたいか考え、私が感じたいように感じられるようになり、気にしすぎ病は治っていきました。

 

でも、これだけではまだ足りなかったです。

帰国後は就活など、近い将来に向けた自問自答を繰り返す時にありましたが、私の死生観や結婚などの生物としての本質的な欲求の規制まで踏み込んできた、親の宗教教育による私の人生への影響を、どこまで許せるか、許すべきか、許せないか、それをどう感じたいかを決め兼ねていました。人生の軸も他人に委ねたまま、人生の選択など私にはできませんでした。

 

よって、帰国後、向き合う精神力と思考力を手に入れた私の、最初で最後の大仕事である、人生の軸・ミッションに宗教を入れるべきか否か、向き合う時間が始まりました。

 

自分の頭にある程度出ていた答えがありました。しかし、あくまでも仮説でしかなかったそれをサポートする根拠が欲しかった私は、本を読むことにしました。これまでも、悩んだ時、その時々で解決に導いてくれたのはいつだって本だったので、私は本との出会いとそれが教えてくれることを信頼していました。しかし、宗教の問題だからといって、キリスト教の本を読んだり、哲学書を読んだりはしたくなかったです。私は、科学的で、論理的な根拠を探していたのです。

そして出会ったのが「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」など、科学を武器に見えない概念を可視化し、根底からひっくり返してくれる本たちです。神は虚構であるという仮説を、より詳しく、様々な科学的根拠に基づいて、語ってくれました。

こうして強力な裏付けを得た私の考えはより頑丈なものとなり、宗教は私の人生の軸からすっぽり抜け落ちました。

 

最後に、私がこの過程で新たに得た軸が、「変化し続ける」というものです。

一連の脱宗教二世計画のすえ、消え去った軸を同時に埋めてくれたのが、これです。以前とくらべものにならないほど太く、強く、まっすぐな軸です。

 

嫌なものは変えればいいんだと本気で思えるようになりましたし、変えることを憚りません。かつては嫌なことに甘んじることさえ美徳だったために、身動き一つ取れなかったのですが、科学が美徳をゴミ箱に捨ててくれました。

 

この軸は、私の人生22年間の最高レベルの抽象化で、よっぽどのことがない限り、変わることもない抽象度の軸です。

やりたいことがあれば突き進むのみ、立ち止まって考えても仕方ないことを考えなくても良くなった。やりたいことをやった先にはまた変わり続けるんだと確固たる軸を持った自分がいるから、どんなことがあっても大丈夫。

あとは欲に素直になって存分に命を燃やしていこうと思う次第であります。

 

こんな風に私は試行錯誤してきました。

一般の方からしたら遠回りもいいところでしょう。でも、私にはこうするほかなかったし、むしろこれが最短距離だったとさえ思います。こんな人生に今は誇りすら持っています。ある意味最も困難な課題である、植えつけられた死後の恐怖や、神への恐れを克服できたんだと。気にしすぎ病が完治した私には、こんなバックグラウンドさえ、人生明るく楽しく持って行く方向に、荒療治ではあったけれど、向かわせることができました。

 

以上、私の脱宗教二世のお話でした。

質問等ございましたら、ぜひ寄せてください。

長々と、駄文を失礼しました。